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【転載】「学生」から「市民」へ――ゆとり全共闘批判あるいは今日の「学生」運動の不可能性について

当然世界さんがゆとり全共闘について書いた批判について転載許可が取れましたので、本ブログでも掲載いたします。


「学生」から「市民」へ――ゆとり全共闘批判あるいは今日の「学生」運動の不可能性について

ゆとり全共闘の仕事は偉大だった。その批評性は認めざるをえない。インターカレッジな連帯の回復と学内規制・学費・就活に対する一連の批判的運動という仕事。これは完全に今日的大学の在り方に対する批判として正当なものだ。日本の大学という教育機関が持続可能性を喪失していることは誰の目にも明らかである。大学。学問の自由を防衛するための国家内国家。しかしそんなアカデミズムの楽園が日本の何処に、どれだけ生存できているというのか。そして生存し続けることができるというのか。ぼくたちの眼前にあるキ ャンパスというのは、隅から隅まで、「企業戦士育成機関」として再編されつつある。けれども、ここで育成されるのは、大学入学から三年ないし四年後の「就活」という戦場において有用である戦士に過ぎない。つまり短期的直接的に有用である戦士に過ぎない。産業構造が絶えず進化かつ深化し、社会における主要な産業というものが変化するポスト産業資本主義の現代にあって、このような人材育成にはどんな持続可能性もない。大学はもっと、より根本的な生存の質の向上のための育成(と研究の)機関となるべきである。それが大学とそこから輩出され る人材とその人材によって構成される社会に持続可能性をもたらす唯一の道だ。


 こういう現状と問題点と将来とるべき道のために、ゆとり全共闘の仕事は偉大だったと、その批評性は認めざるをえないと、ぼくは言っているのだ。何故ならそれは自己を完全な企業戦士育成機関とするためにキャンパスを制度的物理的に「浄化」し、「無菌化」をほとんど完成させた大学当局への批判であり、かつ、可能なる別世界の提示であったからだ。


だがゆとり全共闘の行動的批評(あるいは批評的行動)が端的に言って、「普通の学生」には理解し難いものであったのも否定できないところである。ぼくは各大学の運動の担い手達個々人の「センス」を批判したいのではない。決して、そうではない。そうではなくて、むしろ担い手個々人の責任など問うことができないような巨大な断絶がゆとり全共闘の活動家と 「普通の学生」の間にあるということが言いたいのだ。ゆとり全共闘の活動家達が活動家となったのは、ぼくは断言するが、大学生として合理的決断の結果ではないだろう。彼等が大学生としての合理性を越えることができた原動力が何であるかは彼等の個人史に属することであるから、神ではないぼくはここに書くことができない。しかし、とにかくそれは「普通の」事態ではない。大学生という属性を持った人間が合理的に振る舞おうとすれば、言い換えれば「普通の大学生」がその属性に忠実であろうとすれば活動家に対して敵対的であらざるをえない。何故なら彼等は企業戦士として自己を鍛錬せざるをえないからであり、大学の企業戦士育成機関化を肯定せざるをえないから。ゆとり全共闘が「2011年学生運動の失敗」などと題した生放送をしなくてはならない悲劇の原因はここにある。彼等は大学生の属性から導きだされることとして、大学生として当然のこととして、現状の大学の在り方に対して批判を行い、可能なる別世界を大学生という属性を持つ者達に提示した。しかし、今日のように、企業戦士育成機関化がほとんど完成した大学の学生達が自らの属性に忠実であろうとすれば、彼等の属する現行秩序の中で合理的に振る舞おうとすれば、活動家を黙殺し、嘲笑しなくてはならないのである。


  ぼくは何が言いたいのか。ぼくは、大学の自浄作用としての大学改革はもう不可能だと言っているのであり、大学改革を訴える根拠をそこに属する大学生という階級であることに求めることは敗北への道であると言いたいのだ。

 資本主義社会において、様々な労働者保護政策を導入させた根拠が、資本主義内部から導き出されたものではなく、むしろ、その外部である封建主義や保守主義から導きだされたように、ゆとり全共闘も、あるいはその後継組織も、大学改革の根拠を大学内部、大学生の属性内部から導きだすのではなく、外部からそれを導入することで説得的言論を構成するという戦略が必要なのではないか。 考えられるのは、学生運動の活動家が自らの立場を学生ではなく、市民という立場に位置づけなおし、市民として、より長期的な意味で(その持続可能性を回復させる人材を養成するという意味で)社会に貢献するような大学を要求することではないか。そうでなければ運動の持続可能性を保障するような、学生を含めた広範な階層の支持を得ることは、もう不可能なのではないか。

 つまり学生運動は、市民運動の一部へと自己を発展的に解消する他に生存戦略を持たないであろう。だが、何もぼくは悲観的なことは書いていない。ティトーは「歴史上のどんな運動でも、自己を永久化しようとする運動は、反動的なものにな」る、と言った。しかしまた、ぼくたちは、「継続は力なり」という言葉も知っている。そして活動家諸賢は前者の言葉を心に刻みつつ、後者を信じることができる。一体どこに悲観的なものが入り込む余地があるというのか。

「死ぬまでは次がある。常に次はあり続ける」(『BLACK LAGOON』制作/マッドハウス)
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全国学費奨学金問題対策委員会

Author:全国学費奨学金問題対策委員会
7月14日(日)にデモを行うに当たり、ゆとり全共闘のブログを一時的にジャック!!
高い学費、借金でしかない奨学金に抗議をし、するために7月14日(日)にデモを行います。
学費無償化、給付制奨学金の実現に一声あげましょう。

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