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「3.11」と「大学」、そして…

 奇しくも、私がこのブログを書いているのは3月11日である。すでにあの「3.11」から一年がたったのである。これから私は「大学」について書きたいと思っているが、どうにもそれには「3.11」という事件を無視することはできないように感じられる。

 「3.11」という事件は私たちが信じてきたものがどれだけ「信じてきたもの」に過ぎなかったかを明らかにした。未曾有の原発事故が起き、放射能がまき散らされた中で、政府もメディアも「影響はありません」と繰り返しただけだった。そうした中で一般的な人々においてももはやテレビから流れてくるコメンテーターや「専門家」の話に疑いを持たざるを得なかった。日本における「自明性(当たり前)」が実は破綻していたことに気づき始めた。

 しかし同時に、破綻している「自明性」は延命され続けていることも明らかにした。「原発」が爆発しようが、放射能がまき散らされようが、津波で人が流されようが、ここにいる「私」は「日常」を生きてしまっている。「放射能」がきたって構いやしない。私たちは「日常」に「終わり」が来ると密かに期待していたのかもしれないが、結局「日常」は「終わらない」し、劇的な変化もなく進むことができる。ただし、「気にしなければ」として。

 ここから考えられることとしては、「3.11」という事件は実は日本社会において「常にすでに起こっていた」状態を露呈させたにすぎないということだ。レトリック的な言い回しをすれば、「3.11は起きていない」(なぜなら「常にすでに起こっている」ことの延長に過ぎない)ということも言えよう。このように、私たちは破綻する(している)ということがわかっているのにもかかわらず、生きられてしまっているわけだ。

 さて、このあたりから大学の問題とつなげて語りたい。実は今の大学においても「常にすでに起こっている」事態というのが存在するのではないか。学生たちは「常にすでに起こっている」事態の中で「生きられてしまっている」のではなかろうか?「大学」は破綻する(している)とわかっているにもかかわらず。

 そうしてみると、現在進行している状況というのは「学生の動物化」とでも言うべき事態であると考えられる。もっと言えば、「(すでに)動物化した学生」の徘徊といってもいいかもしれない。「動物化」というのは某思想家の言葉だが、端的に言えば、「各人がそれぞれ欠乏−満足の回路を閉じてしまう状態の到来」ということである。今の学生は「最後の人間」、つまりは「歴史的闘争から解き放たれ、安逸と退屈のなかで凡庸な消費者になりさがってしまう人間」になってしまっているというわけだ。
「動物化」については⇒ http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B0%CA%AA%B2%BD

 2000年代初頭にはすでに「大学」では「最後の闘争」が繰り広げられていたのかもしれない(現在は「最後の闘争」以後に残された「最後の人間」たちである)。1月25日付のこのブログの記事「ゆとり全共闘と呼ばれる組織について」では、2000年代初期の「早大闘争」の様子が描かれた動画が上がっている。この時期においては強まる「動物化」の中である一つの抵抗が繰り広げられていたが、このような事態が起こっていたことを知る学生は今となってはほとんどいない。もはや「動物化」はデフォルトになっているのだ。そして「動物化した学生」と現在私たちが問題視している「学費」「就活」「学内規制」の問題は表裏一体なのである。

 ところで「動物化」は何が問題なのか。

 第一の問題。「動物化した学生」たちは「抵抗」を持ちにくい。端的に言えば「問い」を発することができない(この点に関しては昨日の記事「何を「取り戻す」のか」がよく書かれているので参照してもらいたい。)。この「問い」を発することができない状態は長期的な視野を持った思考を閉ざし、持続的な社会設計を不可能にする、もしくは一部の「専門家」に委ねる以外なくなる。

 しかし、日本には「10万年」先まで見通して立てなければならない核廃棄物最終処分場の問題や、100年を見越して再構築しなければならない年金制度の問題など、長期的思考が不可欠な問題が山積みなのである。また、「3.11」が明らかにしたように「専門家」とはいかに「いいかげん」な存在かわかった以上、自ら「専門家」に対する判断力を持たなければならないのである。こうした課題に対して「動物化した学生」は太刀打ちできるのか(大学の進学率が50%を超えている以上、社会の半数は大学の影響を受けるのだ)。

 第二の問題。「動物化した学生」たちは贈与感と連帯感を持ちにくい。目の前の対象に対する欲望しか見えなければ、自分が「与えられている」という感覚を持つには至らないだろう。「与えられている」という感覚がなければ、他者に向けて「与える」ことはできない。せいぜいインターネットを介して、ウォッチした後「2ちゃんねる」に書き込んで満足して「消費」は終了だ。わざわざ誰かと「与え合う」関係として連帯する必要もない。そうした関係は極めて風通しの悪い状態を生み、「自己責任論」が席巻することになる。

 しかし、誰かとともに取り組まねばならない問題など社会にいくらでもある。制度レベルの話ではなく、居住・育児など生活スタイルのレベルにおいても今や無視できない。そうした中で「動物的感覚」に安住して良いのだろうか。

 このように「動物化した学生」は現時点においてはなんとなく「生きられてしまう」が、これは将来的には社会的なレベルでは制度的にも個々人のライフスタイル的にも弊害を生み出す恐れがある。そして弊害をさらに次世代に再生産する恐れもある。

 こうした中で、状況は八方ふさがりなのであろうか。希望はないのか。「動物化」の最大の問題は回路が閉じていることであった。ならばその回路を開いて繋いでいく作業が必要となる。抗議の回路、学問の回路、労働の回路、創造の回路、欲望の、すなわち、絶望の、幸福の、怒りの回路…まだそれぞれ閉じたまま繋がれていないこれらの回路を接続していくことで新しい扉は開かれる。

 今回の「大学取り戻せデモ」はまさに閉じられた回路を開いていく一つの作業の一環に他ならない。それによって何が生み出されるかは今のところは未知数である。今後の「大学」を巡る状況が良くなるとも悪くなるとも言い難い。悲観的な予測のまま、今大学で進行している事態が続いていくかもしれない。

 しかし、「今がおかしい」というのと「今よりもっと」という二つの感覚がなければ、「常にすでに起こっている」事態というのを捉えることはできない。まずは「常にすでに起こっている」事態を「動物」的に捉えることをやめようと意志するところから始めてみようではないか。「気にする」ことから始めてみよう。そこから私たちは「3.11」の、あるいは「大学」の事態を乗り越える思考を手に入れられるのではないか。

 「3.20 大学を取り戻せデモ」ここから一つの新しい思考を始めよう。新しい扉は「常にすでに」開かれ始めている。

文責:@uchunohate (on Twitter)

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全国学費奨学金問題対策委員会

Author:全国学費奨学金問題対策委員会
7月14日(日)にデモを行うに当たり、ゆとり全共闘のブログを一時的にジャック!!
高い学費、借金でしかない奨学金に抗議をし、するために7月14日(日)にデモを行います。
学費無償化、給付制奨学金の実現に一声あげましょう。

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