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大学と経済

 今や、社会は経済に埋め込まれつつある。
 ありとあらゆることが、貨幣を代価にして行われるようになった。友人と駄弁ろうとしても、駅や広場や公園からはホームレス対策の名の下にベンチなどが撤去され、ゆっくり憩うこともできない。結局、お金を払って、マクドやら喫茶店やらに入ることになる。休憩するための場所にも、お金がかかるのだ。あるいは、大きな話をすれば、現在では二酸化炭素にも値段が付けられている。「排出権取引制度」というやつである。
 ホリエモンこと堀江氏は、「金で手に入らないものはない」ということを繰り返し言っている。そして、それはあながち間違いでもない社会に、私たちは生きている。

 大学もまた、経済に埋め込まれつつある。
 かつては「大学自治」「学問の自由」を高らかにうたい、俗世間から隔絶した感のあった大学は、今やいかに企業に評価してもらえる学生を育てるか、あるいはどれほど多くの学生に国家資格を取らせることができるか、そういったことに第一義的な関心が向いているように思われる。いわば、大学の就職予備校化である。

 このことは、学費の値上がりと大いに関係がある。
 1960年には年間9,000円だった国立大学の授業料は、1970年には12,000円、1980年には180,000円、1990年には339,600円、2000年には478,800円、そして現在では535,800円(文科省令による標準額)。消費者物価指数を基に、物価の値上がりを考慮したとしても、1960年の学費は現在の54,000円程度に相当、1970年は現在の36,000円程度、1980年は現在の240,000円程度なのである。私立大学にしても同様で、授業料の平均額は1970年から1990年の間に大きく跳ね上がっている。
 この値上がりは、何を引き起こしたか。
 まず、この値上がりの背景を指摘しておきたい。1970年の教育白書には、国公私立学校で何らかの教育を受けている人間を指して、「受益者」という言葉が用いられている。管見の限り、この白書が受益者という用語を使った最初のものである。この白書では、「授業料などの受益者負担額が妥当な程度の金額となるよう配慮す」べきであるとされている。つづく1971年の中央教育審議会(中教審)による答申でも、同様の表現が用いられており、そこに付された〔説明〕では、「受益者負担の実際額は、教育政策の立場から、その経費の調達が大部分の国民にとっていちじるしく困難でなく、個人経済的には有利な投資とみなしうる限度内で適当な金額とすべき」とされている。
 70年の教育白書も71年の中教審答申も、当時の政治家や文部官僚の本意はどうあれ、文面上は決して受益者負担額の増大のみを狙ったものではない。70年教育白書においては、「父兄や学生が学校に納付した授業料・入学金等を受益者負担額とし、これに対して、学校が支出する教授費、維持費、修繕費、補助活動費等の消費的支出を受益者の受益額と」するとなっており、両者の割合が国公立大学と私立大学では大きく差があり、この格差を是正するために私立大学への財政援助や奨学金制度を拡充すべきという内容になっている。ここでは、受益者の受益額は、在学中の教育にかかった費用、すなわち教育費に限定されている。この限定は、71年中教審答申ではやや曖昧になり、先に挙げた〔説明〕では、学校卒業後に得られる経済的な利益を指して、受益としているとも読み取れる。とはいえ、やはりここでも私立大学への財政援助や奨学金制度の拡充は唱えられているのである。
 しかしその後、政府が大学への財政援助や奨学金制度の拡充に腰を据えて取り組むことはなかった。その一方で「受益者負担論」はひとり歩きを始め、「大学を出れば給料の良い仕事に就けるのだから、授業料は高くても良い」といった、乱暴な議論がまかり通るようになる。授業料は先行投資で、生涯年収はリターンだ。ここで描かれる受益者とは、まさに新古典派経済学的な経済主体、自らの利潤を最大化しようとする経済合理的な個人である。この「受益者負担論」は、政府のみならず、世間一般で広く受け入れられるようになった。良い塾、良い高校、良い予備校、良い大学、良い会社、良い人生。
 ここに至って、大学は経済に呑み込まれる。

 大学が、そして社会が、経済に埋め込まれることの、何が問題か。
 大学の問題、社会の問題については、先に他の方々が論じておられるので、ここでは取り上げない。
 私がここで問題としたいのは、経済がすべてを呑み込んでいくことで、経済自体が衰退していくということである。
 大学と経済という観点に絞っても、すでに衰退の兆候はある。現在、大学では就活や就職に向けて様々なキャリア教育が行われているが、しかし企業はそういった大学のキャリア教育をあまり評価していない。専門知識の必要な専門職や研究職でない限り、企業は学生が大学で何を学んだかをさして気にしない。日本企業はむしろ、社員研修を通じて新入社員に一から知識を叩き込む方を好むため、大学でキャリア教育を行おうが行うまいが、大して気にしていないようなのだ。さらに言えば、そういったキャリア教育によって、要領よく就活をこなす「優秀な就活生」は大量に生産されるが、しかし彼らが「優秀な社員」になるとは限らず、むしろマニュアルに頼りすぎて自主性を発揮できない傾向があるという。企業の人事部が優秀な人材集めに四苦八苦するゆえんである。ではいっそ教育機関としての大学を潰せばいいかというと、ことはそう簡単でもない。大学に職を得ている、あるいは大学に関係する産業(塾・予備校・家庭教師など)にいる人間の数は膨大であり、大学の廃止は当然ながら膨大な失業を生む。失業は消費の冷え込みを招き、消費の冷え込みは経済を停滞させる。
 いつのものだったかは失念してしまったが、以前プレジデント誌で面白い記事を見た。ある企業の人事部員が、「大学寮の出身者は、優秀な社員になることが多い」という。理由は、「様々なバックグラウンドを持った人たちと共同生活を送ることで、コミュニケーション能力や自発的に協力する姿勢が自然と身に付いている」というものだった。2000年以降に、大学当局が躍起になって自治寮を潰してまわり、学生の溜まり場を制限し、サークルや学祭を管理下に置いた顛末が、「大学寮の出身者は優秀」。最高の皮肉だ。

 私たちは、経済を相対化しなくてはならない。
 絶対的なものとして、その中でしか生活を営むことができないものとして君臨している経済に対して、別の論理、別の倫理を打ち立てなくてはならない。何よりも、経済自身のために。
 先に関が述べたように、大学という場は学問を通じて何かを問い直す場たりうる。大学を取り戻すことは、正しく大学を、そしてそれが埋め込まれている経済を問い直すことなのである。
 大学の論理、経済の論理、他の政治やら芸術やらの様々な論理、こういった論理の多様性こそはそれ自体で豊かさであり、それぞれの論理における豊かさにも寄与するものであると、私は強く信じている。
 デモもまた、政治行為としてそれ自体が一つの論理であり、したがって問い直す行為でもある。ゆえに、私はこのデモを支持し、参加するものである。

 まあ、その、あれだ、よろしければ明日14時にお茶の水公園で会いましょう。デモって結構楽しいから。まじで。


東京大学文学部
鈴木 駿


追記:あと、どーでもいいけど明日俺の誕生日だぜヤッホウ
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全国学費奨学金問題対策委員会

Author:全国学費奨学金問題対策委員会
7月14日(日)にデモを行うに当たり、ゆとり全共闘のブログを一時的にジャック!!
高い学費、借金でしかない奨学金に抗議をし、するために7月14日(日)にデモを行います。
学費無償化、給付制奨学金の実現に一声あげましょう。

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